概要
地域活性化に挑戦!
「何もないのが魅力」そんな山県市をどうPRする?
現地視察から企画発表まで密着しました
山、川、花。
自然が美しい岐阜県山県市の地域活性化を依頼された、中京大学の坂田隆文ゼミ。
夏休みに行われた1泊2日の現地視察会と、企画発表に密着しました。
「何もないのが魅力です」
そんな風に地元の方がおっしゃる山県市を、学生たちはどうPRしていくのでしょうか?
ゼミではこれまで、山崎製パンや中日ドラゴンズ、シャチハタに提案するなど、様々な企業と産学連携で企画にチャレンジしてきたそうですが、そういった様々なプロジェクトは学生に自分自身の課題に気づかせるために取り組んでいると坂田先生はおっしゃいます。
「ゼミでの活動は、自分自身を変えていくためのものだと思っています」
「このままじゃだめだ、こんな力がもっと必要だと、考えるようになりました」
学生たちがこう語る背景には、一人ひとりの将来を想えばこその、坂田先生の日々の指導がありました。
今回のプロジェクトでは、学生たちは何を学んだのでしょうか?
山県市の皆さんに、どんな提案をしたのでしょう?
死ぬ間際まで教えていたい、という坂田先生の熱血指導も必見です!
こちらの授業は2セット配信しておりますので、是非ご覧ください。
坂田隆文先生(大学・ゼミ)を見る
坂田隆文先生(大学・ゼミ)2を見る
Q.山県市プロジェクトのゼミ内での位置づけは?
坂田 隆文先生(以下、坂田) 普段、ゼミで学生たちが何かする時は、2つのパターンがあります。1つは、どこかから頂いた依頼をやることです。今回の山県市のプロジェクトの場合、「山県市の活性化のために学生のアイディアをください」とご依頼をいただいて、先月ぐらいから学生たちがやり始め、今日は初めてのプレゼンの場でした。
もう1つは、学生たちに、「こんなコンテストがあるけど参加する?」と聞いて、「参加したい」という場合は、メンバーでチームを組んで発表して、アイディアを練っていきます。だいたい平行して、毎年、少なくて3つ、多くて5つか6つのプロジェクトを走らせます。
Q.今日の授業の設計について
坂田 普段も、学生が発表して、私と発表メンバー以外の学生が質問を投げかけます。最初のうちは質問が出てこないこともありますが、「質問をするのが当たり前」という空間作りができると、あとは放っておいても質問が出ます。私は、学生が気付かないような質問や、学生が気付いていないような観点から発言をすることに徹しています。
Q.今日の授業の手応えは?
坂田 どうしても1回目は学生たちも手探りの部分があります。時間が経つにつれて、うまくいくチームもあれば、途中で手応えがない場合「おまえら、もうチーム解散しちまえ」と言うこともあります。そういう意味で、ちょうど夏休み明けの今日、「夏休みに作業を進めていた確認が取れたな」と思いました。
今日の指導は、厳しさで言うと、10段階で3、4ぐらいです。やさしいほうですね。学生たちにとって一番嫌なのは、自分たちの学びの場を奪われることです。私が最上級に厳しい時には、「やめちまえ」と言います。
学生たちのやる気が見えないとか、修正・改善が求められていることが全然直らない場合は、「おまえら、もうやめちまおうか」と言います。学生たちは、頑張ろうという思いで取り組んでいるつもりでも、どうしても発想がぬるくなってしまうというか、学生ならではの甘えが出てしまうことがあります。そういう時、私が持っている最後の伝家の宝刀は、「やめちまえ」という言葉です。
今日はその点「もっとこういうようにしなさい」とか「もっと考えなさい」という話で終わっているので、全然厳しくないと思います。私はよく「頑張るのは学生の責任だ」「でも、頑張り甲斐のある場を提供するのは私の責任だ」と学生に伝えます。
私が用意した頑張り甲斐のある場で、学生が頑張らないのだとすれば、「やめちまえ」ということになります。私は私で、学生にとって頑張り甲斐のある場を提供できているかどうかというのをはかられていますし、学生が頑張っているかどうかをはかっています。ある意味、その緊張感だけは持っていたいなと思っています。
Q.やめるように言う時の学生への思いは?
坂田 本当にどうしようもない「やめちまえ」と、「ここで頑張らなかったら終わり」と伝えるためにという2つの場合があります。
前者はせいぜい1割か2割で、残りの8割9割は「ここで頑張らなかったら終わりだぞ」というメッセージを込めて、「やめちまえ」と言います。ゼミに入りたての子は、何かをさせられることはあっても、「やめちまえ」と言われることは珍しいようです。
例えば、高校時代に、「勉強しなさい」と言われることはあっても、「勉強するな」と言われることは、あまりないようです。私は「しなさい」と言うことはなくて、「するかしないかは自分で決めなさい」と言います。
成長したければもちろんいろいろなことを頑張ったほうがいいし、成長する気がないなら何もしなくていい。どうせなら成長したいから頑張ろうと思っていたら、ぜんぜん頑張りが足りないとか、能力的に問題があるということで「やめちまえ」と言われると、学生は「頑張ることすらできないの?」と思うようです。
「頑張ることすら認められないの?」とショックを受けてしまった学生には「自分で頑張ったつもりになるな」「つもりというのが一番まずい」と話しています。学生にはいつも、「それなら頑張らないほうがよっぽどましで、自分で頑張ったつもりでも周りで認められない、あるいは私が認めない、社会で認められないというのが一番まずいぞ」と言っています。
Q.社会人に対してするような指導を学生たちにする理由
坂田 いくつか理由はありますが、一番大きな理由は、今、企業の方々も、若手の育成をずいぶん悩んでいるという話をあちこちで耳にします。その若手の育成で悩んでいるという時に、私の考え方では「いつまで経ってもお客さん扱いしているからだな」と思います。
私は学生のことをお客さん扱いする気はなく、学生だからと合わせるのでもありません。頑張ったら頑張った分だけ成長、成功するという、何か得られるものがあるという意味で、「私に合わせろ」ということを徹底しています。
私はもう社会人なので、私に合わせることが学生自身の勉強にもなるだろうという考えです。そうすると、社会人の人たちが何十人と集まる場に学生を放り込んでも、学生だからと甘やかされずに一緒に過ごすことができます。
うちのゼミで1年ほど揉まれていると、社会人2,30人の中に放り込まれて、3時間ぐらい過ごすことができるようになります。それを今まで何年間も経験してきたので、学生に合わせるのではなく、学生が社会に合わせるということを教えていきたいと思うようになりました。
Q.普段のゼミのスタイルを教えてください
坂田 けっこう驚かれるというか、疑問に思われますが、「何をするかは自分で決めろ」と言っています。例えば、一昨日、学生から「今週のゼミではこれの発表をしたいです」と連絡が来ました。
今日は、皆さんが取材に来られるということもありましたし、「ちょっと待て。7チームが『発表したいです』と2日前に言い出して、できるわけがない」と説教しました。学生たちも、私ももちろんですが、お互いに時間は貴重です。「じゃあ、その時間をどう使うのかということは、自分たちでしっかり考えなさい」と伝えます。
今週のゼミで何をするのか自分たちで考えて、「することない」と言うのなら、ゼミはしなくていいです。もちろん大学のゼミなので、休講が続くということはいけないのですが、幸いここ数年間ずっとそのスタイルでやり、学生たちから「やることがないので休講にしてください」と言われたことはありません。何をするのか、どうやってするのか、どのレベルでするのかということは、基本的に学生に考えさせています。
勤め始めた頃、私自身が教えることに対する能力が乏しかった時は、私が何を教えるかということばかり一生懸命でした。今は私が教える前に、まずは、学生たちに求めるものを考えさせたいなと思っています。「転ばぬ先の杖」という言葉がありますが、教育の現場では過保護だと学生に伝えています。教育の現場ですべきことは、転んだ後に杖を渡すことです。
転んで痛い目に遭い、「転びたくないな」とか「転ぶの怖いな」ということが分かってから杖を渡せば、学生たちはその杖を使うようになるはずと考えるようになりました。
昔は「今週のゼミ、これするよ」「来週はこうするね」ということを全部私が決めて、私が運営していました。学生の主体性も自主性も積極性も育たないので、この5,6年で、ゼミ生全員で、毎週何をするのか考えるスタイルに変わりました。やることがたくさんありすぎて、私がコントロールするのが面倒臭くなったというのも正直なところです。
もう1つは、ぐいぐいとみんなを引っ張るような積極性とか主体性を持った学生が現れ、その学生が物足りないと思うゼミはしたくないからです。学生にはやはりレベルがありますが、私は真ん中や下に合わせず、必ず高いレベルに合わせます。なぜかというと、真ん中に合わせると平等なように見えて、レベルの高い子たちは物足りず不満に思うからです。
そうすると、せっかく能力のある子や、頑張っている子が頑張り甲斐がない場になってしまいます。私は高いレベルに合わせる、ある時、「あれもこれもしたい、これもしたい」という学生が現れました。
学生中心というふうにゼミを回していくと、いつのまにか、何をするかは学生たちで決めるという雰囲気ができあがりました。そもそも、うちのゼミは、2年生3年生合同でゼミを進めていますので、先輩たちの良いところを後輩が盗むことが伝統的に受け継がれて今のスタイルに変わりました。
Q.プロジェクト・ベースド・ラーニング型授業を初めからしていましたか?
坂田 いえ。10年ぐらい前です。プロジェクト・ベースド・ラーニング、いわゆるPBLはもう1つ、プロブレム・ベースド・ラーニングという言い方もできますよね。
私のイメージで言うと、プロジェクト・ベースじゃなく、プロブレム・ベースで、学生たちがプロジェクトをいろいろこなしているのは、自分たちの課題に気付くためだという感覚でやっています。
昔、いわゆる産学連携や、企業に対する提案、行政に対する提案というのがまだなかった時代にも、違う材料をいろいろ用意して、とにかく学生たちに課題や自分たちは何が足りていないのかを発見させていました。
例えば、「発表の時に声が小さいとか、どもってしまう、噛んでしまうのは練習量が足りないんだ」と言えば、練習するようになります。とにかく課題に気付いてもらうための材料として、プロジェクトをやっているという感じです。その材料としてプロジェクト・ベースになったのが、10年ぐらい前ですかね。
Q.課題に気付かせたいというのはどういう思いからですか?
坂田 私自身がなぜ頑張るのかというと、自分が足りないところ、劣っているところをなんとかしたい部分があるからです。言い方が悪いですが、学生はまだ成長途上なので、ぜんぜん完璧でも完全でもありません。
ふだん学生同士で一緒にいると、自分たちが足りない部分や劣っている部分になかなか気付けません。中京大学の学生が一番多く交流するのは中京大学の学生ですが、一流大学の学生と一緒にいると、「うわ、頭良いなぁ」と感じると思います。同じ大学の同じ学部の友達同士でいると、自分が劣っている、足りていない、まだまだ成長の余地があるということに気がつけないことが多いと思います。
「いやいや、君たちはぜんぜん足りない部分があるよ」、「足りない部分があるということは逆に言うと、成長の余地があるよ」ということを伝えてあげたくて、課題に気づかせる方法をとるようになりました。
Q.これまでの活動について
坂田 ここ数年で言うと、企業との産学連携と多く、いろいろな企業からご依頼をいただいています。今日、発表があった山県市の中日ドラゴンズへの提案もありますし、去年は、山崎製パンのランチパックへの提案もありました。今までにブラザー工業とか、シャチハタ、就活サービスのマイナビに提案ということもやっています。
敷島パン、サークルK、井村屋もありました。幸いなことに、いろいろな会社さんからゼミのホームページに直接ご依頼をいただくこともあります。ありがたいことに、毎年それをやらせていただいています。
活動については3つの特徴があります。1つ目は、マルチタスクです。必ず学生たちには、1つ2つではなく複数のタスクを同時進行してもらいたいと考えています。
なぜかというと、我々が社会人として仕事をする時に、1つだけ進めればいいということはありません。「あの案件とこの案件と、あれもしなくてはいけない」という状態が普通なので、学生たちにもその経験をさせてあげたいと思っています。私は、学生には最低でも3つぐらいは同時並行でさせてあげたいと考えています。
もう1つが先ほどの課題解決です。プロブレム・ベースド・ラーニングと言い、何であろうと気付いたことは学生に対して説教しています。私はマーケティングの教員で、マーケティングや流通論が専門ですが、学生に対してマーケティングや流通、商品企画のことを指導説教することは2~3割です。
最初は「時間を守れ」ということとか、「メールの送り方がおかしい」とか、あるいは、「チームワークの協力の姿勢が見えない」とか、当たり前のことを指導説教します。ありがちな話で言うと、学生が言っていることやっていることに対し、「口先だけになっているぞ」ということも叱ります。
課題、あるいは問題点は、とにかく気付いたら遠慮なしに全て言うことを心がけています。これが、2つ目です。ときどき、学生が「大学に入ってこんなに叱られると思わなかった」と言うので、それだけ説教し倒しているというのは珍しいのかなと思います。
3つ目の特徴は、学生の限界を定めないようにしています。例えば、先ほどの山県市の提案で言いますと、できる学生とできない学生というのはもちろん分かれます。しかし、関わりのある企業の方に対して、自分で連絡して打ち合わせをさせました。
そういうことを、教員は嫌がります。もちろん、責任があるからです。私も責任の範囲内でやっていますが、学生たちができることを「学生だから」とキャップをかぶせやめさせるのではなく、できることは何でもやらせています。
例えば、山県市に視察に行った時に、2日間まるまる車でいろいろ移動して視察をしました。案内してくれる山県市の関係者の方が運転しているとき、私は一度も助手席に座らず、学生が2時間も3時間もしゃべっていました。
普通は先生と学生と企業とか外部の方というセパレートになってしまう部分も、「学生でもやればできる」と思っています。たぶん、この3つが指導の特徴ではないかなと思います。
Q.プロブレム・ベースド・ラーニングという方法を最初からしていましたか?
坂田 今でも覚えていますが、私が着任して1回目のゼミのことです。メンバーの顔も知らない時に、私が教室に入ったら、遅れてくる学生がいたので、「なんで遅れたん?」と聞きました。
「あ、すいません。遅刻しました」、「遅れたって、遅刻したって一緒やん。なんで遅刻したん?」と聞くと、学生は「寝坊しました」と答えました。「なんで寝坊したん?」、「目覚ましをかけ忘れて」、「なんで目覚ましかけ忘れたん?」と聞いていくと、学生は固まります。
私の専門がマーケティング、ビジネスということもあり、トヨタ自動車さんの「問題がないのは最大の問題だ」という言葉を参考にしています。問題を発見できていないと、当然解決もできませんので、一番ダメな状態です。学生が遅刻をした時に、「コラ!」で終わってしまうと、結局、学生は次も遅刻してしまいます。何が問題なのか、掘り下げて考えさせることが一番大事だと思っています。
私も若造で、たしか最初は学生と9歳差とか、「お兄ちゃん」という年齢差でしたが、学生に対し、「なんで?なんで?なんで?」と繰り返し、同じ失敗は二度繰り返すなと教えました。
失敗はいくらしてもいいです。しかし、同じ失敗を二度繰り返したら、それは成長がないということですから、とにかく「反省を次に活かせ」と言い続けてきました。それこそ学生が泣いてしまうぐらいにガミガミと、「なんで?なんで?」と追い詰めることもあります。
最終的に学生に投げかけるのは、「反省は次に活かせ。反省を活かしている限り、反省できる学びの場を提供してあげる」ということです。「でも反省を次に活かさないなら、学ぶ場を提供するだけ無駄だから、俺は何も与えない」と言います。
普通の教員と学生は、「授業をするのが教員の責任」「授業に参加するのが学生の責任」という関係だと思います。しかし私は、「私の責任は、この時間に授業することであって、それ以外は責任を持たなくていい?」と聞きます。
学生は、「私たちの成長に興味を持ってください、こだわってください」とか、「私たちが、就職活動で成功することにもっと関心をもってほしい」と内心思っています。そう思っているならと、私はそれに興味、関心、責任を持つのですが、学生に対しては「じゃあ、なにを返してくれるの?」と聞きます。
そうすると、学生は「え?就職活動について、先生は責任を持ってくれるのに、私たちが何かを返さないといけないの」と困ってしまいます。しかし、私にしてみれば、学生の就職活動の成功は、私のお給料にまったく影響しません。
「俺はおまえの就活の成功にも成長にも責任持つ。その代わり、なにが返せるの」、「何も返せないとしたら、頑張るとか、感謝するということぐらいしか返せるものはないのでは?」などと言います。
そうすると学生は、私に叱られた時にも、「ありがとうございました」と言うようになります。私が学生に対して突き放す態度を取っても、学生は、「いや、頑張らせてください」と言いますし、それがうちのゼミの強みになっていると思います。
ただ、ゼミに入りたてだと特に、「授業料を払っているのに、納得いかない」という学生もいるみたいです。そういう学生にはっきりと、「金曜日のこの時間が君たちの授業料だから、ビジネスライクにやろうか」と言うと、学生は、「いや、それだけでもちょっと」という顔をします。ビジネスライクでなく、お互いがしっかり与え合う、ギブアンドテイクの関係を作ることが理想的なのだろうと思います。
Q.学生からの評価は?
坂田 ゼミ生以外の外部では、私は大学で一番厳しい先生だと思われているらしく、「坂田は鬼」とか、「坂田とゼミの面談をすると泣かされる」とか、とにかく厳しいと言われているらしいです。
ただ、うちのゼミの学生はおそらく、「社会に出たら、それぐらい普通なんだ」という感覚を持っています。それは私がいろいろな企業の方と学生の接点を作り、多い学生なら100人ほどの企業の方と会っているからだと思います。
そうすると、段々「あ、社会ではこれぐらい普通なんだ」と思うようになります。学生には、「学生だからと甘えるな」といつも言っています。これもよく例で出しますが、高校生がどんな格好で大学受験に行くかというと、高校の制服です。
しかし、就職活動の時、学生がどんな格好をするかというと、スーツです。高校生の時には、高校生のまま受験ができますが、大学生は、社会人に合わせて就活をしなければいけません。
この違いを学生に話し、「だから、君たちは社会に合わせる必要があるんだよ」と言うと、順応できる学生は納得していくようです。
残念ながら、そこで順応できずに、「社会に出るのが嫌だ」と思ってしまう学生もいるようで、うちのゼミでもやはり辞めてしまう子がいます。辞めていく学生が出るのは仕方がないと割り切るのか、それとも、辞める学生が出ないようにすべきか、私自身、教えるスキルや学生との関わり方を変える必要があるのかずっと悩んでいます。
ただ、そういうことを悩んでいて、学生と飲みに行った時に話したら、「そういうことを悩む先生だから、私たちはついていくんですよ」と言われ、その言葉にすごく救われましたね。
Q.他の先生からの評価は?
坂田 大学教員というくくりで言うならば、他の教員から「そんなに厳しいことをしていたらダメだ」と叱られたことも、「私にはできない」と感心していただいたこともあります。大学の世界では、相当珍しいタイプなのだと思います。
元々、大学生の頃は、高校の国語の先生になりたかったのです。しかし、受験で失敗して免許が取れず「学校の先生になりたいけど、なれないな。どうしようかな」と考えている時に、たまたま友人が大学院に進んで、大学教員になるという話だったので、そんな道もあるのかと考えました。
大学教員は、よく「研究者であり教育者」と言われます。一人ひとりの比重で言うと、研究者9割教育者1割とか、研究者10割教育者0割という先生がいる中、なかなか教育者10割にはなれませんが、私は教育者の比重が大きいのだと思います。
しかも、大学という世界は、比較的学生の自由度が高いです。与えられた時間帯だけではなく、学生に対して伝えられることは全部伝えていこうと、昨日も、夜中の2時半に学生から来たメールに、返事して説教していました。そういうことができるのが、大学ならではかもしれません。やりすぎているのかもしれませんが、賛否両論だと思います。
今どき、ハラスメントという言葉が一人歩きしてしまい、説教して学生が泣いているのを他の先生が目撃すると、ハラスメントとされることもあります。学生が泣きながら「ありがとうございます」と感謝してくれるような場合も、外から見ると、「やり過ぎだ」と言われてしまうことがあります。
ほとんど一般論ですが、大学の教員は、学生が成功しようが成長しようが給料が変わらないため、学生に興味がないようです。しかし、私個人に関して言うと、学生の成長を見る、実感するということ自体が、ある意味報酬だと思っています。その報酬を報酬だと感じられない先生が多いのは、残念に思います。
Q.アクティブ・ラーニングに座学は必要か?
坂田 うちのゼミに関して言うと、座学中心のゼミ以上に、座学が多いです。座学はそれほど相互作用や議論が必要ではありませんので、うちのゼミは、どこのゼミよりも本を読ませています。
ゼミに入る時の課題図書も5冊以上あります。専門書、教科書5冊以上というのが最低条件で、ゼミに入ってから、学生たちにちょっと足りないところがあると、「この本を読んでおけよ」と渡します。
気がつくたび、「この本は読んだか?」とか「これ、来週までに読んどけよ」と渡すこともあります。今日もたまたま、学生が他の講義で私が教えた専門用語を忘れていたので、「じゃあ、この本を1冊読んでおけ」と言いました。「その本を読まなかったら、もうプロジェクトから追い出すぞ」なんてことも言います。
もし仮に、「坂田先生、もっと座学もしたほうがいいのでは」と言う先生がいたら、「先生のゼミでは、年間何冊の本を読ませていますか?うちのほうが多いですよ」と言います。先ほど申し上げたように、分からないことがあれば、ゼミの時間以外にも私のところに質問にきますので、特に問題はないかと思います。
時々、「アクティブ・ラーニングに座学は必要か?」と議論があります。私は、座学なしのアクティブ・ラーニングはあり得ないと思っています。知識もないのにディスカッションしても仕方がないと思いますので、知識は各自の責任でしっかり勉強しなさいと言っています。
グループディスカッションやお互いにアイディア出し合うなど、1人で出来ないこと、いわゆるアクティブ・ラーニングの場としてゼミの時間があるという感じです。うちのゼミ生で、「本を読むのが嫌だから、うちのゼミに来た」という学生はいないと思います。
Q.再現性のポイントは?
坂田 再現性なんてないと思っています。再現性があるということは、定型化できるということなので、相互作用ということは何が起こるか分かりません。その「何が起こるか分からない」というところにアクティブ・ラーニングとか、私がやっているようなPBLの魅力があるのではないのかと思います。
先ほど申し上げた通り、何をどこまで教えるかと考えずに、全部教えるつもりでやっています。正直、「去年の子にはこれを教えたのに、今年の子には、教えられていないなぁ」とか「もっと教えてあげたらよかった」という反省点はあります。
ただ、私はそれがダメなこととは思わず、アクティブ・ラーニングに、再現性は要らないと思っています。私は1人1人、学生の個性が違うのに、「毎年、再現性がある授業をしなさい」というのは矛盾があると思っています。
A君は去年のB君とはぜんぜん違う学生で、B君が分かっていることをA君は分かってないというのであれば、教え方を変えます。B君ができないことをA君ができるというのであれば、今年のA君に対しては、もっとレベルの高いことを教えます。
そういう意味では、再現性より大事なのは、学生1人1人を見る気持ちなのかなと思っています。正直な話、アクティブ・ラーニングは、人間性が問われると思います。教える範囲がここからここまでと定まりきらないのがアクティブ・ラーニングの長所でもあり短所でもあり、学生が何を言ってくるか事前にコントロールがつきません。
私が言ったことに対して、学生が反応し、それに対して、「もっとうまく返せたのになぁ」と反省することもあります。教員の技能や人間性が影響するので、私が教えているやり方をそのまま違う先生がやってうまくいくとは思えません。ただ、ポイントになる部分はあると思いますので、そのポイントだけでも掴み取ってくれたらと思っています。
Q.先生にとって教育の目標、ゴールとは?
坂田 私は、特に大学の世界では、「アクティブ・ラーニングに一番求められているのは、実はアクティブ・ティーチングだ」とあちこちで言っています。
学生のアクティブ・ラーニングにいろいろなことを言いながら教えるのは「本当にアクティブに、積極的・能動的にできているんですか?」と思います。教える側が教えることに対し、熱意が持てていないとか、工夫が出来ていないとか、妥協している時点で、いくらアクティブ・ラーニングと言っても、そこには限界があると思います。
究極の理想を言うならば、私が死ぬ前日に、そのときの教え子や卒業生にものを教えたいです。私が末期ガンかなにかで入院して、余命幾ばくもないという時、見舞いに来た卒業生に、「死ぬ前だから言えるけどな」と、その時の私しか教えられないことを教えられるはずです。
学生に対して、学びは一生だと言っている分、私が教えることも一生だと思っています。そういう意味で、死ぬ間際まで教えていたいです。私は何歳で死ぬか分かりませんが、50歳、60歳になった教え子が、死ぬ間際の私の教えで、その後10年20年、「坂田先生、ああ言ってたなぁ」と思ってもらえたら、私は草葉の陰で、「良い人生やったな」と思えるでしょう。
学生が一生学び続けようとして、私自身も一生教え続けようとする、その関係があるからこそ、学生と私の関係が成り立っているのだろうと思います。...
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